2018年5月28日月曜日

スロヴァーク&スロヴァキア・フィルのショスタコーヴィチ:交響曲第1・3番(1986・90年録音)

スロヴァキアの指揮者
ラディスラフ・スロヴァーク
(Ladislav Slovak, 1909年9月-99年7月)の指揮する

チェコ・スロヴァキア放送交響楽団
(Czecho-Sloval Radio Symphony Orchestra)の演奏で、

ロシア帝国最後の皇帝
ニコライ2世の治世下に生まれ、
ソビエト連邦の時代に活躍した作曲家
ドミトリー・ショスタコーヴィチ
(Dmitrii Shostakovich, 1906年9月-75年8月)の
交響曲第1番第3番《メーデー》を聴きました。

指揮者77歳(①)・80歳(②)の時の録音です

 ※スロヴァキア放送交響楽団は、この録音当時、
  「チェコ・スロヴァキア放送交響楽団」と呼ばれていましたが、

  1993年にチェコ・スロヴァキア連邦共和国が、
  チェコ共和国とスロヴァキア共和国に分離したため、
  「スロヴァキア放送交響楽団」と呼ばれるようになりました。

  首都プラティスラヴァの名を入れて、
  「スロヴァキア放送プラティスラヴァ交響楽団」と呼ぶこともあります。


ショスタコーヴィチ
①交響曲第1番 ヘ短調 作品10
②交響曲第3番 変ホ長調《メーデー》作品20

ラディスラフ・スロヴァーク(指揮)
スロヴァキア放送交響楽団

録音:1986年11月22-25日(①)、90年1月20-26日(②)、スロヴァキア放送コンサートホール、プラティスラヴァ
【NAXOS 8.550623】1994年8月


交響曲第1番ヘ短調作品10 は、
レニングラード音楽院 作曲科の卒業作品として作曲され、
ショスタコーヴィチが19歳の時(1926年5月)に初演されました

※「レニングラード音楽院」はもともと、
 「サンクトペテルブルク音楽院」(1862年設立)
 と呼ばれていましたが、

 1914年8月に、
 サンクトペテルブルク を ペトログラード に改称したのに伴い、
 「ペトログラード音楽院」と改められました。

 さらに1924年1月に、
 ペトログラード を レニングラード に改称したのに伴い、
 「レニングラード音楽院」と改められました。

 それから半世紀以上をへた1991年6月に、
 レニングラード を サンクトペテルブルク に戻したのに伴い、
 改めて「サンクトペテルブルク音楽院」と呼ばれるようになりました。

ショスタコーヴィチは、
 13歳の時(1919年秋)に
 「ペトログラード音楽院」のピアノ科と作曲科に入学し、
 16歳の時(1923年6月)に
 「ペトログラード音楽院」のピアノ科を卒業したあと、
 19歳の時(1925年11月)に
 「レニングラード音楽院」の作曲科を卒業しているのですが、

「ペトログラード音楽院」とはつまり
「レニングラード音楽院」のことなので、
異なる2つの音楽院に在学したわけではありません。

交響曲第1番はこの音楽院の卒業作品であり、
初演と同時に大きな成功を収め、
作曲家ショスタコーヴィチの名を世界に知らしめるきっかけになりました。

ただしこの後ショスタコーヴィチは、
第1番の折り目正しい優等生的な作風を
そのまま深化させたわけではなく、

一旦立ち止まって、
当時の前衛的な音楽を吸収しつつ、
自らの方向性を模索する時期に入りました。

そうした試行錯誤を続ける中で生まれたのが、
交響曲第2・3番でした。

交響曲第2番ロ短調《十月革命》作品14 は、
作曲者が21歳のときに作曲、初演(1927年11月)された作品

交響曲第3番変ホ長調《メーデー》作品20 は、
作曲者が23歳のときに作曲、初演(1930年1月)された作品です

当時の前衛的な作曲技法を盛り込んだ、
政治的な色合いの濃い歌詞を用いた声楽入りの
1楽章からなる「交響曲」です。

※以上、おもに千葉潤著『作曲家◎人と作品シリーズ ショスタコーヴィチ』(音楽之友社、2005年4月)を参照。

  ***

NAXOSによる
ショスタコーヴィチの交響曲全集は、
いずれペトレンコの新録音を聴こうと思っていたのですが、

スロヴァークの指揮による旧録音が、
格安で手に入ったので聴いてみたところ、
思いのほか優れた演奏だったので、
旧録音のほうを先に聴いていくことにしました。


第12番まで聴き進めてきた
バルシャイ&ケルン放送響の録音と比べると、

バルシャイのCDは、
楽譜を完璧に再現することに集中した職人的な棒で、
派手さに欠け、多少そっけなく感じるところもあるのですが、

曲の本質はしっかりつかんでいるので、
聴き込むほどに曲の良さが伝わって来る、
渋めの充実した演奏に仕上がっていました。

それに対して今回聴いた
スロヴァーク&スロヴァキア・フィルの演奏は、
オケの機能性の面では若干落ちるように聴こえるのですが、

指揮者スロヴァークの楽譜の読みが非常に深く、

心持ちゆっくりめのテンポを取って、
ショスタコーヴィチの楽譜を存分に歌わせながら、
余裕をもって曲の魅力を引き出していました。

第1・3番ともに、
あたかも作曲者自身が指揮しているかのような
手の内に入った解釈で、ああこんな曲だったのかと
合点がいくこと頻りで、強く感銘を受けました。

とくに第3番は、
これまで何が良いのかさっぱりわからなかったのですが、
スロヴァークの指揮で聴いて初めて、
すべての要素がおもしろくつながって、
ショスタコーヴィチならではの技が光る佳曲であることがわかりました。


ほかでも同じ感想になるかはわかりませんが、
好印象で次の1枚に進みたいと思います。





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2018年5月21日月曜日

バリリ四重奏団のベートーヴェン:弦楽四重奏曲第4-6番(1952-53年)

ウィーン・フィルの第1コンサートマスターを務めた
ウィーン生まれのヴァイオリニスト
ワルター・バリリ(Walter Barylli, 1921年6月~)が、
1945年に、ウィーン・フィルの同僚たちとともに結成した
バリリ四重奏団の演奏で、

結成7年目から11年目
(1952-56年)にかけて録音された
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
(Ludwig van Beethoven, 1770年12月-1827年3月)
弦楽四重奏曲全集を聴き進めていますが、

今回は2枚目として、
ベートーヴェン30歳の時(1801年)に出版された
作品18の後半3曲(第4・5・6)番を聴きました。


バリリ四重奏団の芸術~
Disc2
ベートーヴェン:
① 弦楽四重奏曲第4番ハ短調 Op.18-4
② 弦楽四重奏曲第5番イ長調 Op.18-5
③ 弦楽四重奏曲第6番変ロ長調 Op.18-6

バリリ四重奏団
 ヴァルター・バリリ(第1ヴァイオリン)
 オットー・シュトラッサー(第2ヴァイオリン)
 ルドルフ・シュトレンク(ヴィオラ)
 リヒャルト・クロチャック(チェロ)
録音時期:1952年(第4,5番)、1953年(第6番)
【SCRIBENDUM SC805】2016年7月発売

第4番が
ハ短調の耳に残りやすい旋律から始まることもあって、
2枚目(後半3曲)は1枚目(前半3曲)よりも、
音楽的にぐっと深まりをみせているように思われました。

調べてみると、作品18は
 第1番 ヘ長調
 第2番 ト長調
 第3番 ニ長調
 第4番 ハ短調
 第5番 イ長調
 第6番 変ロ長調
という6曲からなりますが、

これらは、
1798年から1800年にかけて作曲され、
ベートーヴェンが30歳の時、
1801年6月に前半3曲(第1-3番)が、
同年10月に後半3曲(第4-6番)が出版されました

作曲順に並べ直してみると、
前半(1-3)と後半(4-6)で二分されることに変わりはありませんが、
実際は
 ①→ 第3番 ニ長調
 ②→ 第2番 ト長調
 ③→ 第1番 ヘ長調
 ④→ 第5番 イ長調
 ⑤→ 第4番 ハ短調
 ⑥→ 第6番 変ロ長調
の順で作曲されており、
確かにこのように聴き進めたほうが、
ベートーヴェンの成長の様子が聴き取りやすくなるようです。

出版する側からすれば、あまりはっきりと
成長の段階がわかるのは好ましくないと考えたのかもしれませんが、

ベートーヴェンの努力の跡を正確にたどるためには、
作曲順に6曲を聴き込んでみたほうが、
納得できるところが多いようにも思います。


  ***

バリリ四重奏団のCD、いざ聴いてみると、
そこまで目新しく刺激的な演奏というわけではなく、
当たり前のことが普通になされているだけのようにも思われるのですが、

すべてが均等に響く
スメタナ四重奏団の演奏などと比べると、

第一ヴァイオリンを担当するバリリの、
音楽的なセンスの良さが際立っていて、

オーソドックスなスタイルのもとで、
中身のある充実した音楽を繰り広げていました。

繰り返し聴き込むにつれ、
ベートーヴェンらしい歌が程良く伝わってくる
好演であることがわかってきました。

実際のところ、
まだ6曲それぞれの個性を聴き分けられるところまでは来ていませんが、

かなり聴き込んで来たので、
そろそろ次の1枚に進もうと思います。





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2018年5月14日月曜日

名古屋市美術館の「モネ それからの100年」展

ゴールデン・ウィークの最終日、
5月6日(日)に、
名古屋市中区栄にある名古屋市美術館まで、

名古屋市美術館開館30周年記念
東海テレビ開局60周年記念
「モネ それからの100年」

を観に行って来ました。

名古屋会場は、
2018年4月25日(水)から7月1日(日)まで
名古屋市美術館、中日新聞社、東海テレビ放送、東海ラジオ放送の主催とされていました。

 名古屋市美術館開館30周年記念の展示ですが、
 7月14日から9月24日まで
 横浜美術館でも開催されることになっています。

図録の「あいさつ」には、

モネが最晩年、画業の集大成となる
 《睡蓮》大装飾画の制作に着手してから約100年。
 豊かな色彩のハーモニーが観るものを包み込むこの作品は、
 モネの絵画がその後の美術史に与えた影響を顧みる際に
 しばしば引き合いに出されてきました。

 しかし、
 モネの長いキャリアをあらためて俯瞰する時、
 晩年のみならず、そのあらゆる時期に
 画家の独自性、先駆性が刻印されていることに気づきます。

 本展では、
 モネの初期から晩年までの絵画29点と、
 後世代の26作家による66点とを一堂に展覧し
 両者の時代を超えた結びつきを浮き彫りにします。」

とありました(改行はブログ編者による)。
全体の構成は、

 Ⅰ. 新しい絵画へ ― 立ち上がる色彩と筆触
 Ⅱ. 形なきものへの眼差し ― 光、大気、水
 Ⅲ. モネへのオマージュ ― さまざまな「引用」のかたち
 Ⅳ. フレームを越えて ― 拡張するイメージと空間

となっていました。


  ***

印象派の絵画は、
美術の中でも特に好きな分野なのですが、
モネの絵はなかなかまとめて見る機会がなかったので、
良いチャンスと思い、出かけて来ました。

今回はモネの個展ではなく、
モネの現代への影響を具体的に示していくことに
重点が置かれた企画だったので、

モネがどんな画家なのか、
まだよくわかっていない身にとっては、
種々雑多なものが混在しすぎていて、
なんだか掴みどころのない印象が残りました。


モネと発想が似ている現代の作品を、
いくつかにのタイプに類型化して展示してあるのですが、

歴史的な考証にもとづいて、
モネ以降の系譜を明らかにしてるわけではなく、

モネと発想が似ている絵画を、
現代の作品から適当にピックアップしてある感じなので、

モネとはまったく趣向の異なる作品が、
交互に並べて展示されることになっていて、
全体として統一感のない展示になっているように感じました。


そうした中で、
一番肝心のモネの絵画がどうだったのかといえば、
作風の異なるものをバランスよく配置することに
主眼が置かれていたからか、

肝心の作品がそこまで強くなく、
今ひとつ心を揺り動かされない作品がほとんどでした。

現代への影響以前に、
なぜモネが凄いのか、
自ずから伝わってくるような絵画は、
選ばれていなかったように感じますが、

これは作品の配置のされ方による部分が大きいのかもしれません。


  ***

今回、個人的に気に入ったモネの作品は、

5「わらぶき屋根の家」
 1879年(上原美術館)



79「バラの小道の家」
 1925年(個人蔵、ロンドン)

の2作品でした。
今後の参考のため記録しておきます。



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2018年5月7日月曜日

テイト&イギリス室内管弦楽団のモーツァルト:交響曲全集その3(1993・95年録音)

イギリスの指揮者
ジェフリー・テイト
(Jeffrey Tate, 1943年4月- )の指揮する
イギリス室内管弦楽団の演奏で、

オーストリアの作曲家
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756年1月-91年12月)の
交響曲全集(全12枚)の3枚目を聴きました。

テイト50・52歳の時(1993・95年)の録音です


モーツァルト(1756–1791)
Disc3
①交響曲(第47番)ニ長調 K.97/K.73m
②交響曲(第45番)ニ長調 K.95/K.73n
③交響曲 第11番 ニ長調 K.84/K.73q
④交響曲 第10番 ト長調 K.74
⑤交響曲(第42番)ヘ長調 K.75
⑥交響曲 第12番 ト長調 K.110/K.75b
⑦交響曲(第46番)ハ長調 K.96/111b

イギリス室内管弦楽団
ジェフリー・テイト(指揮)
録音:1993・95年、ロンドン、アビー・ロード第1スタジオ
【Warner Classics 50999/9/84638/2/4】Disc3

CD3にはモーツァルトが
14・15歳の時(1870・71年)に作曲された
6曲の交響曲が収録されています。

①交響曲(第47番)ニ長調 K.97/K.73m
 14歳の時(1770年4月)にローマで作曲されたと推測されている。
 これはアインシュタインによって、
 ケッヘル第3版において示された判断であるが、
 確たる証拠があるわけではない。

 ブライトコップフ社の手書き目録によって、
 かつて同社が、パート譜の筆写譜を所持していたことが知られるが、
 現在は散逸。一次史料による調査ができない状態であり、
 モーツァルトの真作かどうか議論の余地が残る。

②交響曲(第45番)ニ長調 K.95/K.73n
 14歳の時(1770年4月)にローマで作曲されたと推測。
 上記①に同じ経緯をもつ作品で、
 真作かどうか議論の余地がある。

③交響曲 第11番 ニ長調 K.84/K.73q
 自筆譜は現存しないが、残された写本から、
 14歳の時、ミラノで作曲され(1770年2月)、
 ボローニャで完成(同年7月)されたと推測されている。

 ただし写本のなかには、
 父レオポルドの作品とするものもあるので、
 真作かどうかは議論の余地が残る。

④交響曲 第10番 ト長調 K.74
 自筆譜が現存し、真作であることは疑いはない。
 作曲時期は明記されていないが、
 状況証拠から14歳の時、
 1770年7月以降にミラノで作曲されたか、
 同年4月にローマで作曲されたかのいずれかと推定されている。

⑤交響曲(第42番)ヘ長調 K.75
 1771年3月に最初のイタリア旅行から帰り、
 5ヶ月後の同年8月、2度目のイタリア旅行へと出発するが、
 それまで、ザルツブルクにいる間に作曲された
 2つの交響曲のうちの1つと推測されている。

 しかし自筆譜はもとより、
 筋の良い筆写譜すら現存していないので、
 真作かどうか議論の余地が残る。

⑥交響曲 第12番 ト長調 K.110/K.75b は、
 1771年7月にザルツブルクで作曲。
 自筆譜が現存しており、⑤に記した
 2つの交響曲の1つであることが確かめられている。

⑦交響曲(第46番)ハ長調 K.96/111b は、
 1771年11月頃にミラノで作曲されたと推測。
 上記①と同じ経緯の作品で、
 真作かどうか議論の余地がある。


モーツァルトの交響曲では、1879-81年に
ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から刊行された
旧全集の通番(第1-41番)が今も便宜上使われています。

これは1862年に
ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版された
ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル
(Ludwig von Köchel, 1800年1月- 1877年6月)による
『モーツァルト全音楽作品の年代別主題別目録 Chronologisch-thematisches Verzeichniss sämmtlicher Tonwerke Wolfgang Amade Mozart's 』にもとづく分類です。

※海老澤敏・吉田泰輔監修
 『全作品解説事典 モーツァルト事典』
 (東京書籍、1991年11月)を参照。


  ***

ジェフリー・テイトが指揮する
イギリス室内管弦楽団による
モーツァルトの交響曲全集、
3枚目を聴きました。

しばらく時間が空きましたが、
時折引っ張り出しては聴き返していました。

まだ14歳までに作られた曲なので、
そこまでの深みや個性に期待するわけには行かないのですが、

仕事や勉強しながら聴くのに
BGMとしてぴったりのCDで、
心洗われるひと時を過ごすことが出来ました。

清々しい風が吹き抜けていくような、
疲れた心を軽く明るくしてくれる佳曲揃いだと思います。

ただし、
ただ聴き流しているだけでは、
それぞれの曲の個性まで感じ取ることは難しく、
どれが第何番なのか言い当てることは、
まだ出来ていません。

それでもかなり聴き込んで来たことは確かなので、
そろそろ次の1枚に進みたいと思います。





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